河辺の家―災難・伊東―

 河辺にある、総司とセイの家。
 川の水を引き込んだ庭の片隅には総司ご自慢の小舟がある。
 自称・沖田家奉公人の善助もここの暮らしにすっかり馴染んでいる。
 そんな沖田家、今日のお客は伊東参謀である。

 伊東は部屋の中から庭を熱心に見つめていた。
 そこには、セイご自慢の花が咲き乱れ、総司ご自慢の小舟が浮かんでいる。
 が、彼の目にはそんなものはうつっていない。
 花よりもっと美しい、と彼が勝手に決めたものを見つめているのだ。
「オーッ」
「エエーッ」
 その美少年は、頬を紅潮させて背の高い黒ヒラメに突進していく。
 が、黒ヒラメは余裕の笑みを浮かべつつ、体をわずかに開くだけで突きをかわす。
 そうして、体勢の崩れた美少年の胴を払った。
「うわっ!」
 美少年が、物の見事に地面に突っ伏した。
「黒ひ……じゃなくて、沖田君、ひどいじゃないか!」
 思わず伊東が声を発したが、美少年はこちらを見もしない。
「清三郎の美しい顔に傷がついたらどうするつもり……」
 叫びつつ庭に駆け下りようとした伊東だが、どうしたことか、前に進めない。
 疑問に思って背後を振り返った伊東は、目を丸くした。見知らぬ男が、自分の袴を掴んでいるではないか。
「だ、誰かな?」
「善助と申しやす」

 話は遡って、一刻ほど前。沖田家の玄関にいきなり人が現れた。
「土方副長と伊東参謀?」
「ど、どうしたんですか?」
 驚く二人に、少々やつれた感じのする土方が手短に用件を伝えた。
「本日、伊東参謀はお暇なようだ。相手をして差し上げろ!」
 総司は、即座に回れ右をする土方の袖を捕らえ、物陰に引きずり込んだ。
「ちょっと、土方さん、どうして伊東参謀をここへ連れてきたんですか!」
「まだここへ来てないと言っていたからな」
 土方の目が、微妙に宙を彷徨った。
「嘘は駄目ですよ」
「な、何がだ」
「確か今日は、近藤先生は朝からお出かけでしたね? 屯所に二人で残されて困った……違いますか?」
「うっ……」
「こうなったらセイを与えておこう、ついでに屯所から遠ざけられて丁度良い、そんなところでしょう」
「いいじゃねぇか、お前も家に居ることだし」
「当たり前です! 私が留守のときにあの人を連れてきたりしたら、たとえ土方さんでも許しません」
 じろり、と白い目で見られて、土方は乾いた笑いを顔に貼り付けるしかなかった。
 
 一方、セイは叫びだしたいのをこらえていた。
 満面の笑みの伊東が、セイに向かって腕を伸ばしているのだ。
「清三郎っ! なんと素晴らしいんだ!ああ、君の男装も美しかったが女装もまた一段と美しい! もっと近くで……」
 じりじり、と後退するが、あいにく背後には壁がある。
 
 「ああ、清三郎、美しい……」
 うっとりする伊東の腕の中で、セイは硬直していた。
 (ひーん……こんな腕、嫌だぁ……)
 総司は土方を詰問しているし、いつもセイの側に居る善助は買い物に行っていて留守だ。
 (総司さまぁ……セイはいつまでここに居ればよいのでしょう?)
 
 「あっ! 伊東参謀、何をしてるんですかっ!」
 ようやく、総司が妻の元へ戻ったとき、セイの魂は半分抜けかかっていた。
「ああ、どうしてこんなに美しい清三郎を沖田君が独占しているのか……」
「そ、総司さま……」
 天敵・伊東の腕の中からセイを引っ張り出し、素早く背後へまわす。
 小柄なセイは、すっぽりと総司の背に隠れてしまう。セイが着物の裾を掴む感覚がして、総司は思わず苦笑を漏らした。
(セイったら、よっぽど伊東参謀が苦手なんですね)
 愛らしい清三郎の顔が消え、かわりに全く興味のない黒ヒラメが出現したことで伊東は少々がっかりしたらしい。溜め息を盛大についた。
「美人は国の宝だよ、沖田君。独占はよくない。さぁ、僕と一緒に愛でようではないか」
「独占も何も、セイは私の妻です」
「そこが、おかしいと思わないのかな?」
「思いません!」

 この、妙な敵の出現に、総司は珍しく頭を使った。
(素直に屯所に帰ってくれるとは思えませんしね。というか、さっさと追い返すと土方さんに怨まれそうだし)
 セイを魔の手から護りつつ、ここに伊東を引き止める方法なぞ、思いつきもしない。
「困りましたねぇ……」
「えぇ、本当にっ」
 大きな瞳に涙をためたセイが、拳を握って振りまわす。
 つい今まで男装をしたばっかりに、また伊東参謀にぎゅうぎゅうと抱きしめられ、難儀していたのだ。
「そういえば、セイの泣き顔、久しぶりですねぇ」
「え?」
「最近、泣かなくなりましたねぇ。昼も、夜も……」
 じっと瞳を見つめられて、セイは真っ赤になった。
「ふふ、可愛い」
 ちゅ、と微かな音がした。

 その頃伊東は通された居間で、セイをどうやって総司から引き離すかを考えていた。
 縁の下で善助が聞き耳を立てているとも知らずに……。
「あの黒ヒラメ……清三郎を手放さないつもりだ」 
(く、黒ヒラメ!?……こりゃまた、なかなか言いなさる方だ……)
 善助は思わず苦笑したが、大事なのはそこではない。手放さないもなにも、セイは総司の妻であるのだが、伊東はそんなことお構いなし、という点だ。
「それに、どうしたことだ、この家は。まるで沖田君のための武芸鍛錬所としかいいようがない!」
(ははは……その意見にゃ、あっしも賛成だな)
「それにしても清三郎は遅い。僕を置いて、何をしているのだろう? 沖田君がそばに居るなら、手は出せないのだが……」
 自分の考えが途中から声に出ている事など気にとめずに、伊東は勝手に家の中を動きはじめた。
(こりゃ、動けねぇようにするしかねぇな……)
 このとき善助の中で伊東は、原田左之助を超えて怪しい人物第一位に据えられたと言って良い。
 
 「沖田先生、ちょっと……」
「善助さん?」
「おセイさんを守る方法は簡単ですぜ。沖田先生が離れなきゃいいんです」
 総司はぽりぽり、と頭を掻いた。
「そうしたいのはやまやまなんですけど……」
 不自然過ぎる、と総司は言う。が、善助はにこり、と笑った。
「庭で、稽古をなすったらよろしいんで……」
 斎藤が、内心げっそりしたのに気が付いたのは善助だけであろう。
 
 そんな斎藤が唯一心のよりどころとしたのは、善助だった。
「斎藤先生、これならお口にあうかと」
 気を利かした善助が、辛口のお酒を運んできた。
「すまん」
「いいえ、おセイさんから、辛党だと聞いておりましたんで……。これでも、今日の味付けは辛い方なんですがね…」
 ほっ、とため息をつく善助。
 見れば、初めて会ったときより些か太った気がする。
「こんなに甘いものを食べていながら、神谷はどうして太らないんだ?」
 斎藤が深く考えもせず発した言葉に、善助は僅かにうろたえた。
「ははは……そりゃ斎藤先生……」
「なんだ?」
 善助はぼんのくぼに手を当てて、首を竦めた。
「相変わらず剣やら何やらの稽古をしていなさるだけじゃなく……その、夜の稽古も相当なもんで……」
「沖田さんはそんなに上手いのか?」
「へぇ、どうやら、相当なもんらしいんで……」
 斎藤は、藤堂平助が言っていた言葉を思い出した。
(激しい剣を使う人は、夜も激しいんだね、と言っていたのはこう言う事だったのか)
 ぐっと杯を煽った斎藤の心中は誰にもわからない。

 桃色の食事が終わり、布団が敷かれているのを見た斎藤はすぐにでも屯所に帰りたくなった。
(泊まるなぞといわなければよかった……)
 何故か、布団が三つ並んでいる。
「ああ、沖田さん、これは?」
 へら、としか形容の仕様がない笑顔で、総司が笑った。
「セイが、兄上と一緒に寝たいって言うんですよ。じゃあ、折角だから三人で……ってことで!」
 真ん中がセイで、斎藤さん右と左、どっちがいいですか?と真顔で聞かれて、斎藤は絶句した。
「お、沖田さん、衝立とかはないのか?」
「嫌ですねぇ、衝立とかがあると、そのうっかり……かもしれないですし。 そんなの、聞きたくないでしょう?」
 何をだ、と突っ込む前に、湯上りほかほか愛らしさ全快のセイが斎藤の腕を引っ張った。
「兄上! 寝ましょう! 総司さまはこっちです!」
「はいはい」
「おやすみなさい、総司さま」
 斎藤が見ている前で、二人は口付けを交わす。そして、布団に入ってからも、二人はじゃれあっているらしい。
 セイが「駄目です、今日は兄上が一緒です!」とか、総司が「なんなら三人で……」とか言うのが聞こえる。が、すぐに、セイは寝入ってしまったようだ。

 そうして、暫く。どうしたことか、セイが斎藤の方へにじり寄ってきている。
 健やかな寝息が背中にかかる。これでは、ろくに眠れないではないか。
「神谷……?」
 振り向けば安心しきった寝顔がある。どきどきする心臓を叱りつけ、体を離そうと動いてみた。が、セイの体の柔らかさが認識されるのみならず、なんとセイが腕を回してきた。
(耐えろ、俺……これに朝まで耐えるのか……耐えよう、耐えてやるさ!)
 翌日は誰よりも早く斎藤が起き出して、庭で煩悩を払うべく素振りをすることになるのが目に見えている。